1998年は、長野オリンピックが開催された年です。
スケートの清水宏保選手が金メダルを獲得しました。
続 温故知新1で紹介させていただいた関正子さんは、
次のように語っています。
「みな我が師」
支えられてこその金メダル。
父親が亡くなった後、土方をしながら生計を立て、清水選手も母親
の苦労を見ているので、感謝の気持ちいっぱいだったと思います。
日の丸の旗を持ってウイニングランをしているとき、母親と目が合
い、涙を流した姿に、私も泣いていました。
大きい外国選手の中で、小さい清水選手が勝ちました。
私も背が小さく足が悪かった中で日本代表として団体優勝できた
幸せ、本当に感動しました。
みんなが先生という謙虚な姿勢。
堀井先輩というライバルと尊敬者がいたから無心になれたのだと
思います。
試合中、無心になることほど難しいものはありません。これが真
のチャンピオンだと思います。
そして、
1998年2月23日の朝日新聞朝刊に次のような記事が掲載さ
れました。
自分でも思いがけない感情なのですが、五輪が終わった今、胸の
内側にあるのは、自らに対する「ものたりなさ」です。
皆様のお蔭で、念願だった金メダルを500㍍で取らせていただ
きました。1000㍍の銅メダルも獲得できました。
でも、目標を達成したとき、わきあがってっきたのは、「競技の
頂点は、人としての頂点ではない」という当たり前の思いでした。
「競技者である前に、人間としてやるべきことをきちんと見つけ
なければ」という気持ちです。
いま、「意識の新陳代謝」が始まっているのを感じます。
表彰台に立たなければ、そんな気持ちになることはなかったかも
しれません。
土台を作ってくれたのは、周囲で僕を支えてくれた方々です。
会社(三協精機)では、本業と関係ないスケート靴の改良のため、
残業、休日出勤をしてくれました。
エムウェーブの氷について、僕が生意気に文句ばかり言うのを、
製氷責任者は黙って聞いて、最高の氷にしてくれました。
練習をして、レースに出る。自分の役割はそれだけでした。
ただ、みなさんの期待と自分の弱さが重なって、500㍍のレース
直前の一週間は、悩み抜きました。
「だれか、助けてくれ」
叫び出したい思いでした。
でも、ここで逃げ出しては、一生、逃げ続けなければならない。
自分の中で「二人の清水」が闘い、レース前夜、ふっと気持ちが軽
くなった。
遠足の前日の子どものように、レースが楽しみになった。
成功のイメージが自然にわいた。
そうなれば、もう大丈夫なんです。
レースでは、とにかく筋肉をしなやかに使うことだけを考えました。
「力を入れる」のではなく、「力を動かす」。
レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。
指の力を抜くことが、8割の気持ちで10割以上の力を出すコツか
もしれません。
最後の直線は、流しているように受け取られがちですが、リラック
スした滑りは、そう見えるのです。
母とゆっくり話をする時間は、まだありません。
でも、毎日、電話をくれます。
「おめでとう、お疲れさん」
と言ってくる。
「昨日も聞いたよ」
と口答えしながら、母の喜びが身にしみます。
19日は父の命日でした。帯広に帰ってから仏壇にきちんと報告し
ようと思い、まだ、天国の父とは話をしていません。
いろんな出会いに恵まれて、ここまで来ました。金メダルは人生の
通過点。僕がひとつの「峠」を超えられたのは、テレビで応援をし
てくださった方も含めて、本当に皆さんのお蔭です。
「我以外皆我が師」
ありがとうございました。
(談)
≪1998年2月23日、朝日新朝刊より≫