1981年世界卓球選手権ノビサド大会の想い出

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2011年12月14日の記事より

1979年の世界卓球選手権ピョンヤン大会に続いて、世界選手権大会
に行かせていただきました。

ヨーロッパに行くのは、もちろん初めて。

海外に行くならヨーロッパと思っていましたから、やはり嬉しかった。

夜の便で成田を出発。アンカレを経由して、パリに着いたと思います。

パリからユーゴのベオグラードに入りました。

前にも紹介したと思いますが、空港で自動小銃を持った係員がいて、
びっくりしました。

そういえば、初めて中国に行った時も、空港の係官が自動小銃を持っ
ていた記憶があります。

まだ、昔の空港だったときですが。

たぶん、ベオグラードからバスでノビサドまで行ったと思います。時間
にして4、5時間ぐらいだったでしょうか。

宿舎は、市内のホテルが一杯で、郊外の山の中腹にあった山荘といった
感じのところでした。

食事ができて、休むことができ、贅沢をしなければまずまずといった雰
囲気でした。

ただし、シャワーはお湯というより、ぬるま湯、半分水だったように思
います。
                   
宿舎から体育館までは、バスで1時間ぐらいだったでしょうか。

朝食を食べてから体育館に向かうわけですが、昼はパンとチーズ、
それにオレンジを宿舎の人が毎日持たせてくれます。

パンは固くて食べられず、チーズは口に合いませんでした。

何度もトライしたのですが、最期まで食べることはできませんでした。
そうすると、食べられるのはオレンジのみ。

イスラエル産といっていましたが、おいしかった、という記憶が残っ
ています。

毎日オレンジだけでは、体がもたないので、時々市内の中華料理屋
さんに、スタッフと行きました。

次回の1983年は東京で世界選手権が開催されることが決まって
いましたので、東京の役員さんが大勢視察に来ていて、何度かご一
緒させていただきました。

ノビサド市は、静かで落ち着いた雰囲気の街でした。

市内の中心部をドナウ川が流れ、かつて栄華を誇ったシャトーが今
はホテルになっていましたが、小高い丘にそびえたち、なんともい
えずいい感じでした。

そのシャトーには、国際卓球連盟の役員が宿泊していたと思います。

かつては、世界選手権は団体と個人戦が行われ、期間は10日間でした。

団体戦から始まり、1日、2日と過ぎていき、4日目、5日目になると
時間がゆっくり過ぎて欲しいと思いました。

少しでも長くヨーロッパの地にいたかったということです。

しばらくの間は、時間が過ぎないで、と思っていましたが、年齢を重
ねるうちに、早く過ぎないかなと変わっていきました。

人間はかってなものです。

会社からバッジを手土産としていくつか持っていきました。

会場の入り口に警備員がいて、IDカードをチェックするのですが、
その人たちに渡すと、顔なじみとなり、本当は取材ゲートからしか入
れないのですが、そこの入り口から入れてくれたり、融通が効くよう
になります。

本当は、そういうことをしてはいけないのですが。

そういうふうに使ったり、知り合った外国選手にあげたり、小物は
便利に使えます。
             
山荘の近くに小さい公園がありました。

歩いて5分ぐらいのところだったでしょうか。

行ってみると、チトーさん(元ユーゴ大統領)の立派な銅像が立っ
ていました。

亡くなってから何年が経っていましたが、まだ、内戦という悲惨な
状態ではなく、平和な国でした。

しかし、チトーさんが亡くなってからは、いつか分裂するだろうと
言われていました。

民族と宗教の違う人たちが仲良くやっていくことは難しく、それを
チトーさんという偉大な指導者が一つにまとめあげていたわけです
が、カリスマ指導者がいなくなれば、結果は見えています。

その後、ユーゴは内戦に陥りました。

1973年に世界選手権が行われたサラエボの街は、何度か映像で
見ましたが、ひどい状況でした。
             
ノビサドで一人の少年と仲良くなりました。

小学校4、5年生だったでしょうか。
毎日のように会場に来て、ユーゴの選手を応援していました。

最初はバッジをあげたのですが、そのうちにあげるものがなくなり、
お金をあげました。

5円玉だったか、50円玉だったか忘れましたが、穴が開いている
ので、珍しいだろうと思ってあげると、とても気にいってくれました。

しかし、大会最終日に彼がお金を返しにきました。

たぶん、お母さんに返すように言われたのではないかと思います。
わかりませんが。

かってな想像ですが、外国では穴あきコインというのは珍しいと思っ
てあげたのですが、お金ということで軽率だったかも知れません。

ユーゴが内戦になってから、あのときの少年はどうしてるか、と気に
なりました。

と言ってもどうしようもないですが。

利発そうな子供でした。
青年になっていましたから、たぶん銃を持って、戦ったのではないか
と当時は気になりました。
   
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