【訃報】近藤欽司先生 ご逝去
元卓球女子日本代表監督・近藤欽司先生が
2025年7月22日、急性心不全のため
ご逝去されました。享年82歳。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
近藤先生は愛知県出身。名門・名電高校在学中には、
インターハイで主力選手として団体優勝に貢献されました。
卒業後は日産自動車に就職されましたが、
「将来は指導者になりたい」という強い思いから
日産を退社し、法政大学へ進学されました。
大学卒業後、京浜女子商業高校(現・白鵬女子高校)に奉職。
本格的に指導者としての道を歩み始められます。
私が取材で何度か京浜女子に伺った際も、
常に誠実にご対応くださり、
一度も嫌な顔をされたことはありませんでした。
あるとき、女子寮の取材を
させていただいたこともありました。
男子禁制の場所にもかかわらず、
特別に写真を撮らせていただいたことを
今でも覚えています。
部屋はきれいに片付き、食事は当番制。
そこに、チームワークの良さが凝縮されており、
「強さの原点はここにある」と実感しました。
選手や保護者から絶大な信頼を集めていた近藤先生ですが、
その背景には、ご自身の病気と向き合う経験がありました。
就任初年度にインターハイで団体優勝を果たし、
「勝つのは簡単」と思われたそうですが、
翌年からは勝てない日々が続きます。
その頃は「選手が悪い」と考え、
怒鳴るなど厳しい指導が続いていたそうです。
しかしそのストレスから肝臓を患い、
3か月の長期入院を経験されました。
その入院が、指導を見直す大きなきっかけと
なったと伺いました。
病床で「自分の指導が間違っていた」と気づかれ、
怒る指導から、選手に寄り添う指導へと方針を
大きく転換されたのです。
その後、チームは再び結果を出すようになり、
近藤先生の新しい指導哲学が実を結んでいきました。
やがて日本女子代表監督に就任。
オリンピックや世界卓球選手権で幾度もメダルを
獲得されました。
福原愛選手、平野早矢香選手、石川佳純選手など、
次世代を担うスター選手たちを育てられた
功績は計り知れません。
2001年、大阪で開催された世界卓球選手権では、
選手選考を巡る混乱がありました。
しかし近藤先生は見事にチームをまとめあげ、
メダルを獲得されました。
福岡春菜選手の起用も的中し、「王子サーブ」と
粒高ラバーが日本を救いました。
「運があった」と謙遜されていましたが、
運を引き寄せる思考と行動が、
先生には確かにあったと感じます。
僕自身が62歳でニッタクを定年退職した際、
元『卓球王国』社長・高橋さんの計らいで
開いていただいた送別会に、近藤先生が
横須賀から駆けつけてくださいました。
恐縮の極みであり、深く感動したことを
今でも鮮明に覚えています。
卓球界に多大な功績を残された近藤欽司先生。
教え子たちの中でその魂は生き続け、
未来へと受け継がれていくことでしょう。
心からの感謝と敬意を込めて――
先生、本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお休みください。
