温故知新  4

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写真は、松崎さんと江口さん

2011年12月11日の記事より

実際は、1998年5月号にに掲載

全日本は取りましたが、世界となると、ロゼアヌ(ルーマニア)が
まだ強かったですし、江口さん(1957年世界チャンピオン)
には、たまたま全日本で勝ちましたが、世界になったら、違うと
思っていましたので、タイトルを取るというようなことは考えて
いませんでした。

世界卓球選手権大会(1959年ドルトムント)は、日本、韓国、
中国が予選リーグを突破して決勝リーグに行ったのですが、日本
はハンガリー戦が予選の山場でした。

トップで私がカットのコチアンに負けて、2番で江口さんがモシ
ョチに勝ったのですが、3番ダブルスが負けて、1-2でリード
されたのです。

4番が江口さんとコチアンで、江口さんはXYのYに出ていまし
たから、2、3、4番とつづけての出場で、すごい体力がいりま
した。

1ゲーム目からどちらも凡ミスがないのでラリーがつづきます。

正確なフットワークで左右に返球されるカットをフォアハンド
で攻めていきます。

江口さんが強打して、抜けるかなと思ったら、低くていいカット
が返ってきて、また最初からチャンスを作り直すという、その繰
り返しでドキドキしながら必死で応援しました。

第1ゲームを取って、第2ゲームを取られ、第3ゲームも大接戦
となりました。

フォアハンドドライブを深く、あるいは浅く、それをミドルやコ
ーナー
に常にカット選手の苦しいところへ苦しいボールで攻めていきま
す。

カット攻略のお手本のような戦いでした。

あまり素晴らしい試合なので、勝利を確信し、最後の方は見惚れ
て感嘆のうなりを発していました。

江口さんも終わってから、その試合が一番の、会心の試合だった
とおっしゃっていました。
             
ラストは、モショチという選手と私が対戦し、出足でちょっとリ
ードれて、ベンチを青ざめさせたのですが、2ー0で勝って、試
合は3-2で勝ったのですが、その試合が山でした。

決勝リーグの韓国戦も2-2となって危なかったのですが、ラス
トで難波さんが勝って、優勝することができました。

私は、団体戦で2敗しましたから、まさかシングルスで優勝する
とは思いませんでしたが、結果的に日本チームはドルトムントで
7種目中6種目に優勝することができました。

世界選手権から帰ってから、自分自身はまったく変わらなかった
のですが、なんで変わるの、と思うぐらい肩書がついたとたん、
人の接し方が変わりました。

周りの人たちが下から見るようになったというか・・・・。

それだけに、自分は決して変わらないように、と決心しました。

練習場でも世界選手権の
決勝と同じ気持ちで

私は、練習場の中で、たとえ自分より下の選手と練習する場合で
も世界選手権の決勝戦と同じ気持ちでプレーするようにしていま
した。

もし負けるにしても1本でも多く得点したり、1本でも多く返し
たり、1本でも相手を苦しめたり、というふうにやっていました
から、試合で諦めるということはありませんでした。

たとえ10本ぐらいリードされていても。

それから、自分より下の選手とする場合には自分の課題を作って、
新しい技術をマスターしかかっているものがあれば、それを練習
試合で使うとか、また、足をたくさん使ってやるとか、というよ
うに工夫をしていました。
               
大学時代は、1台のコートで1ゲームづつの勝ち抜き戦をやるの
ですが、延々と最初から最後までやりました。

男子の選手に松崎さんはよく飽きずに何時間もやりますね、とあ
とから言われましたが、そういうところでも負けたら負け癖がつ
くと思っていましたから、一生けん命やりました。

当然苦しいわけですが、苦しいときにどうするか、というのが日
本選手権とか、世界選手権で必ず生きてきますし、世界選手権で
は苦しく、疲れた状態でやらなければならないですから、そんな
ことで簡単に休めないと思っていました。
      
つづく

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