田村泰先生とご子息・卓さんの共著

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1998年月刊誌6月号の記事より

6年前に琴線にふれる、すばらしい内容の単行本「卓球に生きる」を
発刊している田村泰先生(元徳島市立高校監督)が、近代文芸社より
「卓球の軌跡ー歴史と人と旅とー」をご子息の卓氏との共著で出版さ
れました。

4章からなり、第1章は「卓球の歴史」が紹介され、用具の変遷と戦
術・技術の変化について語られています。

第2章は、「田村卓の卓球」で、中学・高校時代の日記と大会記録を
中心にまとめられていますが、文章能力の高さに驚きます。

それと同時に、県中学校弁論大会で1位になった英文はすばらしいの
一言です。
 

     
第3章は、「心に残る卓球人」と題され、感動するところがたくさん
ありました。

中でも、”ともした希望の灯--樫原秀明君のこと”はよかった。

「岩井、藤原という同級生の二人のデビューが余りにも早く、そして
華々しかっただけに、一人やめ、二人やめして、昨年はたった3人の
部員になった。

そんな中でも、樫原は雑用を一手に引き受けながら、ついに一言の文
句も言わなかった」

以下省略。

「その樫原が1967年富山インターハイの対大分商戦、4-4のラ
ストで勝ち、また、準決勝の対名電戦でも貴重な1点をあげた。

(略)

岩井・藤原は、団体、個人を通じて、何度も新聞や雑誌に華々しく報
道されたが、樫原はついにその陰にかくれたままであった。

だが、富山インターハイにおける徳島市立活躍の原動力となったのは、
樫原のあくまで誠実なその人柄にあったと私は信じている。

(略)

圧倒的多数のそんな無名の高校生に、明るく輝く希望の灯を、この日、
樫原がともしてくれたのではないかと思うと、全国3位の成績は、優
勝以上に光り輝いている」

第4章は、「卓球紀行」になっています。

訪れた国の文化や風習などが紹介してあり、とても楽しい。

指導者、そして全国大会を目指す中・高生には、ぜひお薦めいたしま
す。

また、

明石書店から「卓球に生きる」
中・高校コーチ40年

という書籍が1993年に発売されています。

読みやすいエッセイになっています。

この中からご子息・卓さんの言葉を紹介させていただきます。

卓さんには、8月に亡くなられた鈴木一さのお通夜の席で久しぶりにお
会いしました。

父として監督として

インターハイ9年連続出場(?)

これは、ぼくの持っている日本新記録である。

自分が県代表選手として出場する前に、すでに6年間、父のお供をして
全国大会のあちこちを回っていたからだ。

初めて、出場したのは小学校4年生のときだった。

その頃は、サッカーやローラスケートなど、いろんなスポーツやっていた。

ぼくが卓球を選んだのは、無類のピンキチを父に持っていたからであろう。

家には、卓球に関する本やスクラップ・ブックが山ほどあったし、徳島市
立高校全盛時代の話には、経験と実績に基づくものだけに説得力があった。

父は、アメとムチの使い方がうまかった。

小学生のぼくを、当時県下№1の鳴門第一中学校へ連れていき、勝てば帰
りに好物のクリームソーダーをはじめ、好きなだけご馳走してくれた。

だか負ければ、一言も喋らないで帰ることが度々あった。

知らず知らずのうちに、勝つことの面白さと、勝負の厳しさを教えてもら
ったような気がする。

ぼくが中学、高校と進むに連れて、田村家の生活は卓球を中心に回りはじ
めた。

自宅に卓球場を建ててからは、リビング・ルームにいるよりは卓球場にい
る時間が断然多くなった。

母には少々気の毒であったが、食事のときの話題も卓球中心。

そんなときの父は、生き生きとしており、話はいつまでも尽きることがな
かった。
休日には、あちこちの高校や会社へ連れていってくれ、ビデオを撮りながら、

ぼくの卓球の調子に一喜一憂していたのを思い出す。

父がぼくに費やした金と時間と心労は、計り知れないものがあったであろう。

その期待に十分応えることはできなかったが、そんな父をぼくは誰よりも尊
敬している。

高校を卒業してぼくは親元を離れたが、最近帰省するたびに、ワープロに向
かっている
父を見ることが多くなった。

卓球や英語の指導に関する原稿をまとめているようだ。

だが、ぼくの目から見れば、やはり、父には、ワープロよりも卓球台のほう
がよく似合う。
(1979年全国中学校卓球大会男子シングルス優勝)

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