1979年世界卓球選手権ピョンヤン大会

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2011年11月12日の記事より。

荻村さんとの想い出

初めて世界卓球選手権大会の取材に行ったのは、
1979年北朝鮮のピョンヤンで開催された第
35回世界卓球選手権大会でした。

たしか5月の連休だったと思います。

最初は、メンバーの中に入っていませんでした
が、出発の3、4週間前に行くことになったよ
うに記憶しています。

行くことになった理由は記憶にありません。

海外に行くのが初めてだったので、ワクワクし、
嬉しかったことを覚えています。

渡航は1回だけというパスポートを申請し、初
めてパスポートを手にしたときは、なにか偉い
人になったような気がしました。

出発の日、はっきりとは覚えていませんが70
名から100名ぐらいの人がいたかも知れませ
ん。
荻村伊智朗さん(元国際卓球連盟会長)をはじ
め、協会関係者、卓球関係者、新聞、テレビの
マスコミ・報道陣などなど。

卓球の世界選手権であるから、普通は運動部の
記者が担当になります。しかし、このときは、
社会部、国際部、政治経済部など、ほとんどの
部の記者とカメラマンが行きました。

その中で、私だけが大事なある物を持っていま
せんでした。

1人だけです。

私だけが持っていなかったものは、北朝鮮行き
のビザでした。

ビザを持っていないのに、行こうというのも考
えれば無理な話で、むちゃくちゃですよね。

荻村さんには、北京でビザが取れるだろうとい
う勝算があったのかもしれませんが・・・。そのこ
とについては亡くなるまでお聞きしませんでした。

荻村さんに言われたことは、ビザが取れなけれ
ば、北京に2、3日滞在して帰国してください。

えっ、取れなかったらどうしよう、という不安
と期待感が入り混じった複雑な心境でした。

夕方、北京空港に到着。
小銃を持った係員がいたことに驚きました。

2年後、ユーゴスラビアのベオグラード空港に
行ったときも係員が自動小銃を持っていて、こ
のときも驚きました。

宿舎は、郊外の大学の寮。全員がバスに乗り
込み、今と違い、何もない道路を一路、大学
に向かいました。

荻村さんだけが、北朝鮮の領事館にビザの取
得に行きました。

1、2時間が過ぎたでしょうか。
部屋の電話が鳴り、受話器を取ると、荻村さ
んでした。

今でも、その時の声のトーンが心に残ってい
ます。

荻村さんは、
「片野さん、おめでとう、一緒にピョンヤン
に行きましょう」

と受話器の向こうから明るく大きな声が聞こ
えてきました。

この状況で、おめでとう、という言葉が出る
とは思いませんでした。

普通は、ビザが取れたよとか、取れましたよ、
という言葉になると思います。

荻村さんのおめでとう、という言葉を使いま
した。

その言葉は、今でも強く心に残っています。

翌日、プロペラ機のため、かなり揺れるとき
もありましたが、無事、ピョンヤン空港に到
着しました。

ニッタク(定年した卓球の会社)から一緒に
いったのは、編集の鈴木一さんです。

空港に着くと、二人だけ別の入り口からノー
チェックでベンツに乗り込み、空港を後にし
ました。

なんとなく、後ろめたい気持ちがありました
が・・・・。

ピョンヤン大会は、ニッタクボールが使用球
で、スポンサーだったため、特別待遇でした。

今から言えば、39年前の話になります。

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