2011年11月22日の記事より
1979年世界卓選手権ピョンヤン大会の日本選手団の団長は、
大阪の山本弥一郎さんでした。
山本さんは、大阪卓球協会会長、日本卓球協会副会長を務め、
また、卓球随筆家としても知られた人でした。
それから、戦前、不世出の天才プレーヤーとして名を馳せた今
孝さん(早大・全日本は昭和13、14年優勝、全日本学生は
12年~15年優勝)の義父としても有名でした。
ちなみに、今孝さんは、戦後すぐに亡くなられてしまいました。
もし、健在であったならば、卓球の歴史は変わっていたかもし
れない、と言われた人です。
話は戻りますが、山本さんは、ピョンヤン大会の会場で現地の
人に頼みごとをお願いしてやっていただくと、お礼の言葉が、
いつも「シェイ、シェイ」でした。
(ホテルや町では、なんて言っていたのかわかりませんが)
山本さんに、ここは中国ではなく、北朝鮮ですと話すと、ああ、
そうか、そうだったな。
しかし、翌日もまた「シェイ、シェイ」でした。
関西人特有のジョークだったのか。
深いお付き合いはまったくありませんでしたが、楽しく、愉快
な人だったように記憶しています。
ピョンヤン大会は、ニッタクがスポンサーだったため、私たち
は特別扱いでした。
通訳が2名つき、車は1台(ベンツ)、ホテルも立派なところ
に泊めていただきました。
また、行きたいところがあれば言ってください、ということで、
学校やデパート、地下鉄などを見に行くことができました。
(許可を取るのに少し時間がかかりましたが)
食事も毎回食べきれないほど出してくれ、もったいなと思いな
がら、毎回いただきました。
ホテルの地下に、床屋があり、行ってみました。
値段は、当時(1979年)の金額で日本円で400円ぐらい
だったと記憶しています。腕の方は、まずまずだったのではな
いかと思います。
ホテルの売店には、日本製の醤油、ビール、調味料などが置い
てありました。値段がいくらぐらいだったのか、残念ながら記
憶にありません。
部屋の中に貴重品を無造作においていても、なくなることはあ
ませんで
した。
大会取材は、井坂信太郎さん、鈴木一さん、片野が担当いたし
ました。
井坂さんは、卓球雑誌を2度自費出版した方で、2回とも倒産
しています。
茨城県の那珂湊市(当時)出身で、先祖は水戸徳川家の家来だ
ったそうです。それも身分の高い家来だったようです。
昔の写真や資料が残っているのは、井坂さんが残してくれたか
らと言っても言い過ぎではないでしょう。
戦時中の東京空襲のとき、リヤカーに資料と写真を積み、奥様
と二人で運びだしたということを生前お聞きしたことがありま
した。
ピョンヤン大会のとき、井坂さんは70歳を過ぎていたと思い
ますが、私なんかより、よっぽど、元気な方だったのですが、
このときはどうしたことか、体調を崩してしまいました。
肝臓が疲れたのか、黄疸ができ、現地で入院ということになり
ました。
一時はどうなるのか、心配しましたが、ピョンヤン一の肝臓の
名医が担当についてくれ、大会終了1週間後に元気に退院、無
事帰国することができました。
それもニッタクがスポンサーだったことで、名医がついてくれ
たということです。
それから、井坂さんとは10年以上一緒に仕事をさせていただ
きました。
その間、どれだけお世話になったかわかりません。
府中のご自宅にお伺いしたこともあり、翌朝、奥様特性のお粥
をご馳走になりました。
井坂さんは、恩人のお一人です。